由木という土地を歩いていると、ときどき、自分はこの場所を「理解している」とは言えないのではないか、と思う瞬間があります。
知っている場所は増えた。
名前を覚えた神社や道もある。
顔なじみになった人もいる。
けれど、それでもなお、この地域で積み重ねられてきた歴史や文化、信仰や暮らしのすべてを、自分のものとして語れるわけではありません。

▲稲荷神社(大塚)
最近、自分と地域との距離を言葉にするとしたら、「垣間見る」という表現が近いと感じています。
古典文学における垣間見は、ただ覗くだけの安全な行為ではありません。
たとえば『源氏物語』では、垣間見たことで心が動き、関係が生まれ、そこから物語が始まってしまう。
見てしまった以上、もう元の場所には戻れない、不可逆の行為として描かれています。
現代語における「垣間見る」は軽い言葉に聞こえますが、本来は、見てしまった責任を引き受ける行為でした。
外に立ったままでも、完全な部外者ではいられない。
その不安定な距離に立つことが、いまの自分にとっての「垣間見る」という感覚です。

▲大塚八幡神社(大塚)
由木で記録を続けてきた自分の立場も、それにとてもよく似ていると感じます。
私はこの土地に生まれ育ったわけではありません。
ここには、私が来る前から続いていた暮らしがあり、信仰があり、人と人との関係があります。
それらを「分かった」と言うことはできない。
けれど、歩きながら、話を聞きながら、ときどき垣根のすき間から、その世界をそっとのぞかせてもらうことはできる。
そのときに見えたものを、大きな声で語るのではなく、できるだけ静かに、そのままの形で置いておく。
それが、今の自分にできる
いちばん誠実な記録のしかただと思っています。

▲下柚木御嶽神社の夏祭りの様子(下柚木)
「垣間見る」という行為には、どこか後ろめたさや、遠慮の気配も含まれています。
もっと近づきたい気持ちと、踏み込みすぎてはいけないという感覚。
そのあいだで、立ち止まり続けること。
けれど、その曖昧な距離こそが、地域を記録するうえでは、とても大切なのではないかとも思うのです。
すべてを理解しようとしないこと。
自分の言葉で言い切らないこと。
そして、見えた断片を、断片のまま残すこと。

▲上柚木囃子連の獅子舞(上柚木)
記録を続けていると、
「もっと分かりやすく説明したほうがいいのでは」
「背景を整理して書くべきでは」
と思うこともあります。
けれど、由木のあちこちを歩いてきて、いま感じているのは、この土地は、そもそも分かりやすく一つにまとめられるものではない、ということです。
谷戸ごとに空気が違い、道一本で景色が変わり、人によって語られる記憶も異なる。
それならば、一つの正解を示すよりも、「こんなふうに見えた」という視線を、いくつか置いておくほうが、この場所には似合っているのかもしれません。

▲下柚木御嶽神社(下柚木)
垣間見る、という距離は、決して消極的な姿勢ではありません。
むしろ、他者の世界を尊重し続けるための、ひとつの覚悟のようなものだと感じています。
これからも私は、由木という場所を、正面から語ろうとするのではなく、垣根のすき間に立ちながら、見えたものを、見えたままに残していくと思います。
それが、この記録を「途中」のままに保ち続ける理由なのかもしれません。
余白として
この文章は、何かを説明するためのものではありません。
記録を続けるなかで、自分自身が立っている場所を確かめるための、ひとつの途中経過です。
もし、あなたがこの土地を歩くとき、どこかで似た距離感を覚えることがあったなら。
それもまた、この場所との関係のひとつなのだと思います。
写真・文:しみずことみ

▲大塚公園で行われた東中野フェスティバルの様子(大塚)
